まちが元気になるということ(前篇)

こんにちは。


今日は、『まちが元気になるということ。』について考えてみたいと思います。
長丁場になるのでまずは前篇。



最近、中心市街地の活性化や、まちおこしという言葉が流行語のように巷に溢れているように思います。実際、高知の四万十地域や鹿児島の市街地などは、個性の強いリーダーや有能なクリエイターによって、かなり魅力的なまちおこしがなされていると耳にします。



しかし、実際に市街地を活性化するといっても、その対象となる市街地は地域の『中心』では無かったり、それこそシャッター街のイメージをもたれることの方が多いというのが日本の各地で起こっている現実ではないでしょうか?





上手くまちが活性化しているのは、本当に数多くのまちのうちのほんの一握りでしかありませんし、ややもすれば、一時の盛り上がりに過ぎないかもしれません。





先にあげた、かつての中心市街地がもはや中心の体を成さない現象は、わたしの故郷の会津若松市においても同様に起こっています。





今から十数年前から、市街地を円環状に取り巻く幹線道路の開発とそれに併せた大型スーパーやチェーン店、ショッピングモールが乱立し始め、結果、市街地の顧客の足もそちらに奪われ、もはや昔ながらの目抜き通りが、まちの『中心』の体を成さなくなってしまったのです。





かつての中心市街地には空き店舗が目立ち、駐車場が次々に作られることになります。
恐らく日本中のかつての中心市街地に駐車場が設置されることについて誤解を恐れずに言えば、地元商店会などがモータリゼーションによるスプロール現象に対抗するために、市街地にも駐車場を作れば客足が戻るだろうと考えた短絡的なアイデアなのでしょう。





しかしそもそも、かつての中心市街地の店舗には、ロードサイドのチェーン店に勝てる商品も資金耐力も知恵も残されてはいないのです。魅力的なコンテンツのない場所に駐車場をつくっても、客足が戻るはずがありません。






日本中のどこにでも見られる中心市街地活性化のための駐車場作戦は、ものの見事に数年で極めて利用率の低い空き地に変貌するという哀しい結末を見ることになるのです。






これにより、まちの風景がますます醜悪化するという、負のスパイラルが発生するのです。







さて話を戻して、ここで言う体を成さないというのは、商業的な売上げ、人の通行量、地価など、総合的に見てまちの中心ではなくなったということを意味します。





もちろん、この事態を引き起こした原因は、モータリゼーションの絶大な影響や、国によるまちづくり政策およびそのミスリードによるのは言うまでもありません。







そういった状況の中で、中心市街地活性化というここ十数年の流行り言葉を耳にしても、どこかしっくりこないのは私だけでしょうか?





かつての中心市街地はもはやまちの中心ではないのに、そこに昭和の高度成長期の市街地にノスタルジーを重ね合わせているだけではないのか?幻想を抱いているだけではないのか?





まあ、事例の中では実際に地域おこしに成功して、シャッター商店街を再生して魅力的なまちづくりを行っているところは多々あります。





しかし、そもそもみなさんは、まちが活性化する、元気になるというのは、どういった状態をイメージしているのでしょうか?





私が知る限り、活性化に対する客観的な指標というものは存在しませんし、そもそもそう簡単に尺度を用いて図ることのできる事象ではないのです。






なのに『中心市街地活性化』という言葉だけが独り歩きしているこの異様な状況。






まちに関わる主体として考えられるのは、まず第一にその地域の住民、それから行政、商店街、各種生産者、NPO、学校施設、自治会や町内会、外部からの買い物客など、数え上げればきりがありませんし、個人から組織まで膨大な数に上ります。また、何をもってまちが元気になるのか、という定義についても、その主体により考え方も指標も違うでしょう。







例えば、行政ならば人口が増え、税収が増えることでしょうし、商店街ならば自身の店舗の売り上げが上がることなどでしょう。つまり、まちが元気になる、活性化するとひとくくりに言っても、各主体のイメージやゴールは異なるのです。





では一体、まちが元気になる、活性化するとはどういう状態を示すのか?





続きは後篇にてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
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by cobolabo | 2012-03-23 23:39 | つれづれ